2010/04/26

Irving Penn

写真美術館にて、ジャンルー・シーフの図録とともに、
アーヴィング・ペンの写真集も購入~。

アーヴィング・ペンといえば、
Vogueの表紙を飾った編み編み帽子(?)の女性の写真(1950年)が特に有名なのかな?
と思いますが、
still life、すなわち静物、もすごいです。



Still Life with Triangle and Eraser
New York 1985



Frozen Foods with String Beans
New York 1977


2010/04/25

ジャンルー・シーフ 「Unseen & Best works」



髪の毛のさらさら、ニューヨークのビルのごつごつ、
ドレスのドレープが織り成す陰影、草、木、そして肌。皺。

「手触り」を表現することに関しては、
写真、絵画、文学、映像、どの表現ジャンルも
それぞれの作家がそれぞれ挑戦してきたのだろうとは想像するけれど、
やはり写真、とりわけ銀塩モノクロ写真に勝るものはなかなか無いように思う。

というわけで、そんなモノクロ写真のお手本のような写真がずらり~。
手触りどころか、匂いまで香ってきそうな写真群でした。

そんな作家の姿勢は、作家自身の以下の言葉に凝縮されている。

僕は神の存在を信じない。しかし女性の存在そのものが、すでに神の存在を証明していることになるのかもしれない。そして写真はそれを証明する手段だ。空を見上げたときに気づくある色、そこはかとなく漂うある不思議な香り……(中略)……17歳の少年のころには、これらの嗅覚と感情の高まりをぼくは詩に書いて、翌日にはそれを破り捨てていた。なぜなら、そのときの感情は消え失せ、ただの言葉の羅列にすぎなくなってしまっていたから。それからぼくは写真を始めた。写真は時に私が表したいと願った欲望をそのまま生き続けさせ、静かにあるひとつの世界をつくる
(展覧会 図版より抜粋)


であるからして、彼の表現は当然フェティッシュそのもの。
彼の「欲望」は写真というジャンルだからこそ体現される。
東京都写真美術館で同時開催中の森村泰昌との対比が眩しい(乱暴なまとめですみません)。


ジャンルー・シーフ 「Unseen & Best works」
2010.3.27[SAT]-2010.5.16[SUN]
東京都写真美術館
http://syabi.com/contents/exhibition/index-22.html

2010/04/18

森村泰昌 なにものかへのレクイエム


≪なにものかへのレクイエム(記憶のパレード/1945 年アメリカ)≫ 2010 年


「演劇っぽさ」というか、「フェイクである」という前提の上で成り立っている写真というのは
やはりオモシロイなあと。
作家の自意識とか、問題意識のようなものをばんばん感じさせるから
つい細かいところまで見てしまう。

あと、通常の写真作品と変わらない大きさ・薄さの映像作品!
あれはいいなあ~。

とくに3階に展示されていた縦型の2体の映像作品は幽霊のようでおもしろく。
写真を撮る行為なんか、いかにもだけれど、楽しめる。
で、お金かかってるなあ~新潟の美術館には呼べないだろうなあ~なんて思いました。
そんなことないかもしれないけれど。

森村泰昌 なにものかへのレクイエム
2010.3.11[THU]-2010.5.9[SUN]
東京都写真美術館
http://syabi.com/details/morimura.html

2010/04/11

ツァイト・フォト コレクション展『素晴らしきコレクション』


ウィンストン・リンク
「ホークスビル川の水遊び、バージニア州ルレイ」
1956 年


上の写真に惹かれて行ってきたのだけれど、行ってよかった!
これぞ写真、と思えるような作品に出会えました。

とくに気になったのは、中央に飾られていた大きなカラー写真2枚。
風景を何気なく切り取っているようでいて、
でもその構図(人物の視線)や構成(画中画など)は計算しつくされているような気もする…。
とにかくその2枚に惹かれました。大判だと迫力が違うな。
写真家はTina Barneyという方のようです。
好きな写真家が増えて嬉しい。

ツァイト・フォト コレクション展『素晴らしきコレクション』
2010.3.24[WED]-2010.4.28[WED]
ツァイトフォトサロン
http://www.zeit-foto.com/exhibition/2010/collection.html

2010/04/08

「この世は二人組ではできあがらない」山崎ナオコーラ

「シオちゃんだって、少年マンガの努力友情勝利みたいな小説家にはなりたくないでしょ?」
「いや、私は少年マンガの主人公になりたい」
「ええ?」
「おまえが良いって言ってくれるだけじゃ、私の小説は社会に出ねえんだよ」
「賞のために書いているの?」
「少年マンガのヒーローみたいに、賞が欲しいの」
文学賞とは、社会への切符なのだ。
男に褒められたところでなんになる。作品は社会的にしてなんぼだ。
私は自分の書いた小説を褒められたいわけではなく、社会へ出したかった。


男女間における、対等な会話。それが気持ちいい。
もっと読みたい。

「この世は二人組ではできあがらない」山崎ナオコーラ,新潮社,2010


2010/04/03

フセイン・チャラヤン 「ファッションにはじまり、そしてファッションへ戻る旅」


《慣性》2009年春夏、photo: Chris Moore

シーズン毎にテーマを打ち出しそれを衣服に落とし込むという行為自体は、
ある程度はどのファッションデザイナーも共通して行っていることではないだろうか。
しかし彼の場合は、コンセプトがより哲学的だ。
ファッションとは相容れないような問いがまずあって、
それを衣服という枠組みに強引にぶつけている。

だから一瞬、「衣服でなくてもよいのでは?」という疑問が起こるのだけれど、
やはり身体の上で起こすからこそ、この化学反応はスリリングなのだ、きっと。

フセイン・チャラヤン 「ファッションにはじまり、そしてファッションへ戻る旅」
2010.4.3[SAT]-2010.6.20[SUN]
東京都現代美術館